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昭和びんぼうランド 2019年01月31日 日記 トラックバック:0コメント:0

平成も終わるというのに、私の住む町に昭和びんぼうランドが建つらしい。

以前あったパン屋が閉店し、
今はそこらへんにある築50年のボロアパート風のハリボテが工事現場を囲む幕からはみ出している。これはかつて貧乏な漫画家たちが住んでいたアパートを模してあるそうだ。


私は
「漫画なんて描いてるとモテないし将来お金に困るよ。」
ときちんと教育されていたので漫画なんて描いたことがなくよくわからないが、やはり漫画家というのはみんな貧乏なんだろうか。

ボロアパートの冬は寒くトイレに行くのもめんどくさくなったり、ペンを持つ手がかじかむのでわざわざマクドナルドに行って100円のホットコーヒーを注文しあとは延々ネームを描いたりするのだろうか。



そんなびんぼうランドはこの先貧しくなってゆくであろうこの国の人達が、貧乏でも夢を見出せるような施設で、9億円くらいかけて建てられている。

9億円。
思いつく限りの贅沢をしてもおつりが来そうな額だ。


漫画家の住んでいたボロアパートは私の町では有名らしく、以前タクシーに乗った時に運転手が当時のことを教えてくれた。

ボロアパートの近所には世界初の「ノーパンしゃぶしゃぶ」の店舗があり、たまに編集者が打ち合わせにとアパートの漫画家をそこに連れて行っていたという。

9億円のびんぼうランドとノーパンしゃぶしゃぶ。
私の住んでいるところは夢のある町なのだ。








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高速回線は光うさぎの夢を見るか 2018年10月19日 日記 トラックバック:0コメント:0

かわいそうな女の子を好きなのが自分のもっともどうしようもないところだと思う。

女の子をひどい目に合わせる趣味があるわけではない。
運命的にかわいそうな女の子の、ひどい目にあっても壊れていない心のまともな部分を愛しつつ、壊れている部分に欲望を見出す。

私の漫画を読んだ何人かの人が私の漫画は華倫変に似ていると言っていた。
その後「全く似てない」とか、「○○さんの方が似てる」といった議論まで散見されたので一層気になって、「高速回線は光うさぎの夢を見るか」という短編集を一冊読んだ。

作者は亡くなっているので詳しいことは判らないが、おそらく、「かわいそうな女の子が好き」という点において似ている。というか同じなのだと思う。

さらに、自分がかわいそうな女の子が好きであるということに罪悪感を抱いていることも同じっぽい。

「岡山三奈」がヒロインのシリーズはそれが物語の核となっていて、主人公は人格障害を持つ岡山三奈の生きづらさに同情するが、三奈が生きやすい人格を会得すると簡単に興味を失ってしまう。

この「簡単に」興味を失う主人公の描写に華倫変の罪悪感が見えるような気がする。
他の作品でも華倫変は自らの内面を露悪的に描いているものが多い。


自らのどうしようもなさを表現するやり方が不器用なので、華倫変の評価を見ると、破滅的で自暴自棄ととられる場合が多いようだが、どちらかというと内省的な性格なのだろう。

季節感のない蝶が飛んでいたり、ストーリーと関係なく非現実的なあぜ道に人物がぽつんと佇んでいたり、背景にはしばしば作者の心情が反映される。

ドラッグや輪姦といった強く破壊的なモチーフの後ろに隠された繊細さとそっと対話するような、不思議な作品だった。



握手 2018年10月06日 夢日記 トラックバック:0コメント:0

夢の中でよく誰かと握手をする。
握手をすると、感触や体温がその時だけやけにはっきりし、その後すぐに目は覚める。
手を握ると夢の中ですら、その人と別れることが少しだけ惜しくなる。

自分が正気で考えることに興味がそそられなくなってきているから夢を覚えておくことに躍起になっていて、それが無意識に夢の中でも働いているのかもしれない。

この間は夢の中で酒鬼薔薇聖斗と握手した。もちろん会ったことはないのでどこにもいない人だ。

夢の中で私は「嫌だなぁ」と思いながら話していた。
高校の時仲の良かったりかちゃんが酒鬼薔薇聖斗大好きで、ネットで千葉かどこかのガソリンスタンドで働いているという嘘くさい情報を得て会いに行ったりしていた。

そんな話を彼にすると、
「ガソリンスタンドでは働いてないですよ。」
と言っていた。

りかちゃんに会わせてあげたいなぁ。というかりかちゃんは生きてんのかな?この人本当に酒鬼薔薇聖斗か解らないし。

とか思っていたら、突然手を差し出された。
握り返すと暖かくて分厚い手だった。


私は夢の中で何かを確かなものにする為に握手をしていることがその時わかった。

起きて感触が残っていると、現実に少し夢が混じっておかしなことになる。
でも夢はいつでも私にとって真実なので、ただ受け入れるしかない。


ところで握手は生活をしていてもけっこうある。
酔っ払った人、朝まで飲んだ友達、今日初めて会った人。

手を握ると、全てが普通。夢と同じ。
あまりにさりげなくその行為は行われるので、本当に夢と区別がつかないことがある。

「握手しよう。」
と言われて「何で?」と思った時には握手をしていて、自分の手が相手の手より暖かいとなんか恥ずかしいな。と思った。

なんで握手をするんだろう。何かの確認なのだとしたら、現実のほうは寧ろ不確かになるので弱る。

霊感インターネット 2018年09月13日 日記 トラックバック:0コメント:0

以前「わたしたちの家」の記事で書いた「霊感」について、もう少し詳しく書きたい。

私は「霊感」という言葉を、言葉で伝える事のできない感覚や、存在が証明できないものを適当にまとめて使っている。

そんな霊感の中の一つ、上の記事で説明した、平成生まれ以降のコミュニケーションに比較的用いられる事の多い、グーグル画像検索のような(言葉←→イメージ)といった脳みその使い方は、「メタ感覚」と言い換えよう。(どこかで見たことばを私が勝手な用法で使ってるだけなので出典とかはない。)

メタ感覚とは何か。
言葉で説明するとややこしいので、この画像を見て欲しい。

201809131646541ef.jpg



画像を見て、生理的な不快感を覚える人が多いのではないだろうか。

言葉になる以前に皮膚感覚を刺激されるような感じ、
画像には写っていない石鹸の欠けている部分が歯にまとわりつき口の中の粘膜を刺激し泡立つ感覚を想像し(石鹸を食べたことがなくても)追体験するのが「メタ感覚」である。

何も感じない人や、説明されてもピンとこない人も居るかもしれない。


言葉とは違い、共有されない人が必ず居るのが、メタ感覚の重大な欠点だ。

しかし、近頃の美術や映画、詩などでも、この感覚を刺激するものが増えて来ているように思う。


私も作品を作る際、こういった感覚を大切にしている。

発表していると時々、
「わかりやすくすることはできなかったの?」
と聞かれるが、正直できない。

だいたいのものは万人に解り易く説明可能だけど、説明で面白さを伝えるのは不可能に近い。


メタファーによる感覚の共有は「夢の共有」に近いのだ。夢の話は退屈だが、他人の見た夢は見てみたい。



しかし、これには同じ感覚を持たない受け手を排除する性質があることも考える必要がある。


そうして排除された受け手だけが、本当のところ、次々共有されては消えていく夢を現実に残してくれる人たちなのだと思う。

第4回べるじゅらっく歌会のこと 2018年08月07日 短歌 トラックバック:0コメント:0


歌会の「選」というものがある。
一人一人持ち寄った短歌をいくつか集めて一番良いものを選び、その後1番票を集めた人をなんらかの形で祝福する。それが選。

何でそうするのかは、ちょっとわからない。
短歌の価値や面白さは無限と言えるほど多様な現在においてはおならプーであるとも言える。

選ありの歌会で、「評が入る歌が面白い歌とは限らないよ。」なんて斜に構えた言葉を聞くこともあるが、私が主催するべるじゅらっく歌会のアンケートでは選をする歌会の需要が圧倒的に高かったりする。

選にはこだわる人とこだわらない人がいるが、なんだかんだあった方が「甲斐」があるような気もするし、お得な感じがあるように思う。

密かなニーズに応えるべく、べるじゅらっく歌会も4回目にして初めて、選ありの歌会を開催してみた。
ただし、評の後に選をするというやり方で。

成功したのかどうかは別だが、
結果、試みとしてはかなり面白かった。
(他にもやってる人がいたらごめん。)

まず、評への意識が少しだけ変わった。

私は好きな歌を評するのが苦手だ。
好きという思いは言葉にするのが難しい。
言葉への好きは尚更だ。

出来れば想起されたイメージから絵を描いたりしたい。私の中のイメージが自分の言葉に塗りつぶされていくのを感じてつらい。いっそ黙っていたい時もある。

だけど、自分の評が票になると思うと、何か使命感のようなものが湧く。
評論を必死でやれるのは良い。
批評性のある作家が私は好きだ。


今回、この歌会の選は一つの歌に集中する形となった。

その歌が素晴らしいのは間違いなかったが、私が今までしてきた歌会でこれほど票が集中することは無かった。

評の段階で言葉の間違いや違和感など、さまざまな洗練されていないところが指摘され淘汰された結果に思える。


だとするなら、選というよりも審査のような感じかもしれない。

フェアでないとも言えるかもしれないが、
「歌会で選ばれやすいタイプの歌がある」
「歌会で選ばれる歌が良質な歌とは限らない」といった説は無効になり、勝負としてはより厳格だ。


評の偏りについては、1回目なのでなんとも言えない。もしあまり集中することが多ければそのまま続けるかは考えるとして、

選ありのべるじゅらっく歌会は、「渾身の一首を出す意義のある歌会」としてまた開催したい。
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